昔の狩り犬 [狩り犬]
土佐では、古くから日本犬を狩猟に用いていたが、明治年間まで サルザキ、ウザキ、イザキの三種の犬があった。イザキキは骨格太く猪猟に用いたものであった。
日本犬の規格定まり展覧会などが催されるに従い見映えのするイザキが重宝せられ、日本犬保存会はその形態の展覧会向きのもののみを保存せんとて現在に至っている。
明治まで山国農家の多かった我が国では、農作物が最も重要なる食糧の取り入れを指折り数えて 暮らしている最中、突然猪の親子連れが大挙して畑の芋や乳状から成熟する前を狙って稲穂をくわえ万力の様に粉米をしごき穫って、美味しい半熟の稲を食べて殻になった籾殻を吹き出す様は、壮感である。
昔は、2~3人が寝ずの番を毎夜したものであり、昭和60年ころまでタイや-とか散髪やの髪の毛を焚いて臭いを放ったものである。 これらの害獣の天敵は「オオカミ」であった、田畑を荒らす猪鹿を退治する守護者で、農民にとっては、救いの神としてオオカミを祀る 思想が全国的に広がっていたことも当然であつたと思われる。
全国各地のオオカミを神の使獣として祀る神社の神狼図を受けて「これを祀ると害獣から農作物を護ってくれる」と信じて篤く崇められていた。
ニホンオオカミは、大咬(貝原益軒1699日本釈名」とも言われるほど特徴的な大きな口裂をなし、端に黒毛があり、これが一層大きく鋭い大きな口に感じられたことと思われ万葉の昔から、大口之真神と呼ばれた出処も
その辺 にあったのだろう。
上黒岩岩陰犬が現在の四国犬八千年の遠い祖先犬ではなかろうか?と、愛犬家の中には考える人があるも、これは剰りにも早計と言わねばならない。
上黒岩岩陰遺跡の出土犬骨について、日本最古の縄文犬骨であるのみならず、日本最古の埋葬犬骨である。
主人を囲むように二体葬られていた、これは縄文早期の猪は現在の猪よりも可成り大型であり、犬はいまの柴犬雄程度のサイズの犬が多かった。
尚その上、この上黒岩遺跡第四文化層から石鎚が出土し、弓矢が普及し初めたのである。
かかる悪条件のもとで主従が命をかけて、猪や熊と戦い貴重な淡白源を得たことことを語り残された遺族や、集落の人々が主人とこれに殉じた犬を手厚く葬ったものである。
須崎系狩り犬たちは、素軽くニホンシカとの乱闘の末、かみ殺した直後の荒々しい風貌。普段は優しい花子とクロ参女であるが野獣と対決したときは、豹変するところがヤマイヌのなせる技である。
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