杉茸の初顔 [狩り犬]
九月九日深山海抜五百m付近の大杉林に「杉茸のハシリ」が顔を現した、山男は杉茸の生える場所を経験に因って知るのであるが、生える古場はなかなか把握出来ないものである。
t お爺や婆に聴いても絶対場は教えないもので、妻にもその場は教えない古場なのである、何ほどその人の採集場があろうとも逝く直前も教えはしないもので「その人の個人の財産そのもので、逝くとその古場は白紙に返るのであ
杉茸は、人が触ると成長が止まり杉茸も止まる不思議な茸であり、小さいからと言って手で触るとその茸は其れで終わりである。
松茸の生える場は、以外と同僚や家内に古場を教えるが、杉茸の古場は教えない、採集し続けると2~3年で生えなくなる、松茸とか杉茸の生える時期を把握するのが難題である。
2013.9.13.古場で杉茸を採集した写真
杉茸の簡単料理、①味ご飯 ②すいもん③油いため④天ぷら等。
水稲豊作 [獣害対策]
水稲の稲穂は豊かに実り、穫り入れも終わり広々とした山間部の田んぼの縁を起こし始めた猪助は、今に太く大きくなって麓から中腹にかけて徘徊する季節、シバ栗や丹波栗の豊作で人より先に栗拾い?彼岸花の咲く頃、雄しかの叫びを聴くたびに野生の世界が広がり、少なくなった狩り人の数値は、最盛期の五分の一までに減少、狩猟税まで納めて自衛する老農林業者は、まともな感覚では出来ない獣害対策である。
獣害が発生すると、それ狩り人にと責務を押しつけられ獣追いでは、趣味を超えた業務であるが、農林業者には困った害獣にやりたい放題を見ていると、そのままにうち捨てる訳には行かず征伐に力を貸すことになつてくる。
九月十三日に猪のこどもは一キロ程度に成長していた。山麓か ら中腹にかけての栗が落下が始まり、栗の木の下では昼日中にもガキが菜食して稼ぎしていた。
柑橘類の豊作が、山の生り物の豊作を意味し、初冬にはやや高度を上げて住処を移動し、猪助と狩り人との知恵比べ、生死を掛け毎日稼ぎの生育、人間の様に蓄えられず胃袋一杯でその日暮らしの獣、獣害と言うレッテルを貼られて
逃避する生存は、難儀していることだろう。
可哀想と思うほど生きる力ははかれない。
Hanakoと対決する猪姫?
昔の狩り犬 [狩り犬]
土佐では、古くから日本犬を狩猟に用いていたが、明治年間まで サルザキ、ウザキ、イザキの三種の犬があった。イザキキは骨格太く猪猟に用いたものであった。
日本犬の規格定まり展覧会などが催されるに従い見映えのするイザキが重宝せられ、日本犬保存会はその形態の展覧会向きのもののみを保存せんとて現在に至っている。
明治まで山国農家の多かった我が国では、農作物が最も重要なる食糧の取り入れを指折り数えて 暮らしている最中、突然猪の親子連れが大挙して畑の芋や乳状から成熟する前を狙って稲穂をくわえ万力の様に粉米をしごき穫って、美味しい半熟の稲を食べて殻になった籾殻を吹き出す様は、壮感である。
昔は、2~3人が寝ずの番を毎夜したものであり、昭和60年ころまでタイや-とか散髪やの髪の毛を焚いて臭いを放ったものである。 これらの害獣の天敵は「オオカミ」であった、田畑を荒らす猪鹿を退治する守護者で、農民にとっては、救いの神としてオオカミを祀る 思想が全国的に広がっていたことも当然であつたと思われる。
全国各地のオオカミを神の使獣として祀る神社の神狼図を受けて「これを祀ると害獣から農作物を護ってくれる」と信じて篤く崇められていた。
ニホンオオカミは、大咬(貝原益軒1699日本釈名」とも言われるほど特徴的な大きな口裂をなし、端に黒毛があり、これが一層大きく鋭い大きな口に感じられたことと思われ万葉の昔から、大口之真神と呼ばれた出処も
その辺 にあったのだろう。
上黒岩岩陰犬が現在の四国犬八千年の遠い祖先犬ではなかろうか?と、愛犬家の中には考える人があるも、これは剰りにも早計と言わねばならない。
上黒岩岩陰遺跡の出土犬骨について、日本最古の縄文犬骨であるのみならず、日本最古の埋葬犬骨である。
主人を囲むように二体葬られていた、これは縄文早期の猪は現在の猪よりも可成り大型であり、犬はいまの柴犬雄程度のサイズの犬が多かった。
尚その上、この上黒岩遺跡第四文化層から石鎚が出土し、弓矢が普及し初めたのである。
かかる悪条件のもとで主従が命をかけて、猪や熊と戦い貴重な淡白源を得たことことを語り残された遺族や、集落の人々が主人とこれに殉じた犬を手厚く葬ったものである。
須崎系狩り犬たちは、素軽くニホンシカとの乱闘の末、かみ殺した直後の荒々しい風貌。普段は優しい花子とクロ参女であるが野獣と対決したときは、豹変するところがヤマイヌのなせる技である。
ニホンヤマイヌを訪ねて [狩り犬]
゛ 大台ヶ原にニホンオオカミが未だ生息していると、生存説の信仰者が胡麻毛の山住みの犬を「餌付け」で誘き寄せて写真を写した事が発表された゛。
大杉谷の上流にある「大台辻でも一泊」堂倉林道の製品小屋でも一泊して、夜の林道を地獄峪の上まで探索出会い動物はカモシカとニホンザルで、キャンプ場では、尾根筋から為体の知れない動物の啼き声、多分ニホンザルであろると推察した。
その他の犬科動物は、砂防工事の土建工事者が白色の紀州系を伴って放し飼いの犬だった。
ニホンヤマイヌの顔貌は、視覚の鋭さに秘められて、須崎系の顔貌は「眼孔」鋭く正面らか見ると今にも跳びかからん様相で幾腹の中から」出産する鋭い顔貌は、ヤマイヌの遺伝子ではなかろうか?
古魔は、若犬になってから名古屋に移り 、深山で
実践訓練してきた素晴らしい体型の須崎系で有ったが
何ほど可愛がりしても感性が強く飼い主になれずつい
には飼い主にも反感して時々咬む悪癖が抜けきらなかっ
た犬であった、この悪癖は、野生のヤマイヌそのもので
人には容易に妥協しない強烈な性質の犬であった。
子犬期から実猟に訓練していれば、素軽い軽快な猪犬
に大成していたと推察する。
ニホンヤマイヌの祠 [四国犬]
ニホンヤマイヌは、何時頃消えたのか、日本の山村には峪山に入る入り口に山の神が祀られている、丸い石塔に「山の神」と刻まれ例年一月十五日に神火を焚き、山の安全を祈祷してしめ縄を焼却する風習があり、ヤマイヌの徘徊する冬期には、お供えものの鏡餅や御幣餅を捧げる所もあると言われ、峪口に供えるのは、冬期食べ物が不足する゛と集落に現れて人や家畜を襲うことからその難を逃れるため、峪口に祠を祀つたのではなかろうか? ニホンヤマイヌに近い朴竜女と豪龍右
深山の奥に狼峪と言う地名があり、その奥山で炭焼きをしていた爺さんが「昔のヤマイヌ」は沢山徘徊して、この炭窯でも子犬を産み育てて行った事があった、と胡麻毛の四国犬をみて話を聞かしてもらった、1964年の冬季。
伊勢から伊賀に通じる長野峠の新隧道二入る処にある犬塚の社は、昔、主人の伴で峠に登っていたところ、先に潜む山賊がありそれを主に知らすため袴の裾を咥えて離さなかった事に腹をたててその犬を斬り殺したか、その先に山賊が待ち構えていた。
犬の忠義を無駄死させた事ので犬の霊を祀るため建てられた、と言い伝えがある。
ヤマイヌの表現をした旧須崎系の狩り犬